有難くないおっぱいの話

幼少の頃から気に入った映画を何度も繰り返し見る癖がある。

もちろん好きな映画だから何度も見るというのもあるが、繰り返し見る事で直接脳に場面が刷り込まれるような感覚が好きなのである。

 

久々に何度目かの『祭りの準備』という映画を再視聴した。

古い映画だし、詳細については割愛するので、暇な方はお調べください。

簡単にストーリーを説明すると、閉鎖的な田舎の中で繰り広げられる赤裸々な男女間のいざこざに嫌気が指した主人公が東京に出るまでの話である。

映画の舞台は昭和30年代の高知県四万十市ではあるが、人間の本質って今と大して変わらないと思わされる。

閉鎖してるという意味では都会も田舎も変わらないけど、閉鎖の中でしか生活出来ない人の悲しみを描いた良い映画であると思う。

 

 

前置きがとても長くなってしまったが、今回はおっぱいの話である。

 

え、何、急にキモいんですけど。

 

男である以上おっぱいとの付き合い方は人生を左右しかねない程重要だ。母性の象徴でもあると同時に、性欲の対象でもある。どんだけスケベーな手で乳を揉んでも、その根源には幼き頃に触れた母の温もりを感じているだろう。

どんなに尻フェチであっても、おっぱい問題は男につきまとうと言っても過言ではない。

 

そんな僕のおっぱい感はどうなのか。

いやー、正直嫌いなわけがないですよね。

歴代揉んできた乳にしてもリスペクトしかないわけで。

 

童貞を捧げた乳には女性の肌の柔らかさを教えてもらった感謝を。

ワンナイトを共にした乳には罪悪感を共有するようなスリルを頂いた。

仲が良かったセフレの乳には友情と癒しを。

もちろん嫁の乳には愛を…ちっちゃいけどな!

 

 

おっぱいイズビューリホーだし、みんな違ってみんないいのだ。

大小とかそんなことは些末なことです。

そこには存在としての美しさがある。

 

 

 

そんな中、唯一有難くないおっぱいが自分史の中に存在する。

 

 

あれは僕が最初に努めた会社の飲み会で、本社のある岩手県大船渡市の飲み屋に行った時のことだ。

 

 

当時の僕は腐っていた。

大学を中退して地元の誘致企業に就職したは良いが、激務パワハラ横行安月給のクソブラック会社に良いようにこき使われていた。

 

 

1mmも楽しくない飲み会で、死んだ目で酒を飲む僕をホステスさん(当時50代)が何かと気を使ってくれた。

聞くところによると彼女には僕と同い年の息子がいるらしい。

はぁ、そうですか。と僕は対して興味もなく答えた。

恐らくは子供も社会人だろうか。

深夜までスナックで働くのは家計の足しだろうか。

母親って大変だなー。

気がつくと、彼女に対してある種母親に話すような気分になり、少しだけ心が解れた自分がいた。

 

 

 

そして飲み会がお開きとなり、僕は彼女に礼を言って店を出た。

店先まで彼女はついてきて、別れの挨拶に来てくれた。

 

 

その時である。

 

 

何を思ったか、彼女は僕の手を取るとおもむろに、自分の乳に(生で)当てがい『また来てね』と言って店に戻っていった。

 

 

僕は猛烈な嫌悪感を感じ、そこからホテルまでどう帰ったか覚えていない。

自分の母親のような年齢の女性の乳を触らせられたから?

 

違う。

 

彼女のその行動から、彼女は田舎の町の田舎のスナックで一生を終えることを決めているのだろうな、という確信を得たからである。(大げさだが) 

 

もちろん、それが彼女にとっては幸せなのかもそれない。

しかし、当時20歳そこそこの僕には恐ろしい感覚だった。

このまま今の職場にいたら、将来あのスナックに通うのか?俺も? 

あの田舎でしか生きられない人生になるのか?

そんな想いが巡ってよく眠れなかった、若きらんぽちゃん。

 

 

以上が、僕の有難くないおっぱいの話である。

 

 

恐らく先の震災であの店も津波に流されているはずだ。

ご存命なら彼女の今に幸があることを祈る。

 

長文すぎたし、オチが無かったことを謝罪して〆る。